娘の高校受験が終わり、無事第一希望の高校に合格しました。このホームページは今のところ妻や娘には内容を見せていないのですが、いずれは見てもらいたいという気持ちもあるので、できる限り嫌われることは書かないようにしないといけないです。とはいえ、自分の気持ちを素直に書いて、いわゆる終活の一環?として一生懸命生きた証を残したいなという気持ちです。娘は受験で思うように力を発揮できなかった様子で、妻も私も結果が出るまでずっと心配していました。自分や妻の時代は、高校と中学校の間でうまく調整してくれて、ほとんどの公立高校が倍率1.0倍だったので、試験さえ受ければほぼ全員合格するという時代でした。それに比べ、今は倍率2倍以上(つまり二人に一人は不合格になる?)なんてのもめずらしくないので、今の子供たちは大変だと思います。娘の受験当日、私はレンタルスペースの清掃対応があったりして、レンタルスペースのことを考えていて、ふと娘の試験のことが頭をよぎったときには受験が終わった時間になっていたので、なぜかとても嫌な予感がしていました。嫌な予感が的中して娘がかなり落ち込んでいたので、これも神が私や私の家族に与えた試練なのかと思う一方、娘のことだけを考えてもっと心から祈ってあげなかった自分を後悔しました。私は宗教にどっぷりはまっているわけではないですが、神様を信じたい気持ちはあります。小さい頃(小学校に上がる前から高校入学まで)は年に一度くらいの頻度で耐えられないほどの腹痛が襲うというのが自分の中で習慣化していまして、死ぬほどつらいという表現が適切ではないかもしれませんが、子供心に「神様、助けてください!」と何度も祈って、1時間ぐらい耐えしのいで痛みが治まるという繰り返しでした。(「人生の転換点」で書きました盲腸が原因だったのだと後になってわかりました。)そういう経験をしていたので、困ったときの神頼みは欠かせなかったのが、神様を信じたい気持ちにつながっていると思います。どうして娘の受験が思うようにいかなかったのを自分の神頼みと重ね合わせたのかといいますと、私の進学の節目では私の母親が私の試験の成功を神頼みしたから安心しなさい、と毎回聞かされていた影響を受けたからです。神頼みの力だと心から信じていたとまでは言いませんが、いいように捉えることは悪いことじゃないという気持ちで素直に受け止めていました。ですから今回の娘の受験の前に、私の方から私の母親に、娘の受験があるから祈っててね、とお願いしておきました。自分のルーティーンが娘にもいい方向に働いてくれたらという想いでお願いしたのですが、肝心の自分は娘が試験中に他事を考えていたとは情けないですよね。終わったものはどうにもならないですが、それでも結果は気になるので、妻から聞いた情報をもとにネットでもいろいろ調べてみました。妻は合格・不合格のぎりぎりのラインだとずっと言っていましたが、私は楽観主義なのでおそらく合格していると考えていました。(でもやっぱり不安はあるので、頼むから合格していてくれ!と祈る気持ちもありました。)合格発表当日、妻から在宅勤務にするよう頼まれて、妻といっしょに結果を待っていました。娘が結果を見るまでは妻は結果を見ないと言っていて(結果を見る権利はあるけど)、娘の様子を観察していたのですが、部屋から出てこないので、妻がたぶんダメだったんだと思うと言いつつ部屋に様子を見に行きました。しばらくして出てきて、首を振っていたのでダメだったのか?と思ったら、ネットが混んでて?結果が見れないということでした。1時間経ってもネットがつながらないようなので、妻と娘で学校まで結果を見に行くことになりました。私は家で留守番でしたが、しばらくして妻から「合格だったよ」とLINEが来ました。このときばかりは飛びあがりたいぐらい嬉しくてたまりませんでした。
ごめんなさい、娘の自慢話を書きたかったわけではないんです。レンタルスペースのビジネスについては娘の受験が終わるまでは内緒にするという妻との約束があったので、家の中での会話はタブーでしたが、いい形で受験を乗り越えてくれたので、気持ちよく妻の許可も得られて娘にもレンタルスペースのことを打ち明けました。お客様の予約がないような閑散期だったら友達と使ってもいいよと伝えたところ、もっと喜んでくれると思ったけど、まあ使いたくなったら使うわ、という程度の薄い反応でした。娘が使って喜ぶかどうかよりも、家庭の中でこそこそとやる必要がなくなったのが一番幸せです。娘が今後興味を持つかどうかはわかりませんが、若い女性の感性や意見を取り入れていけたらいいなと思います。